05 燃焼

 草原に立ち、空を見上げる彼女の黒髪が風に揺れる。

「もう大丈夫、ここまでで」

 嬉しそうな、それでいて泣きそうな顔で彼女は胸に手を当てる。

「この空に見覚えがある……何度も、何度も夢に見たことがある。それだけで、もう」



 未だ日の登らない空を見上げながら、あの時の空を幻視する。
 彼女との道はすでに分かたれている。彼女はあの青空の下での暮らしを選び、俺は星の見えない東京の空の下へと戻った。
 共に人生を歩む道もあっただろう。彼女も本心ではそれを望んでいたはずだ。日本に戻るべきだと俺に勧めるセリフとは裏腹に、彼女の瞳は揺れていたのだから。
 
「なぜ、彼女の手を取らなかった」

 心の声は自然と口をついていた。

「日常に戻ることが最大の復讐だったからだ。俺たちがそれぞれの日常に戻ることが」

 それがあの時の動機。そう、ずっと思っていた。この数年間まったく疑わずに。
 本当にそうなのだろうか? 心のどこかで気づいていたのではないだろうか? 彼女と俺とでは心の形が違うことに。

 暴力が好きなわけではない。殺しが好きなわけでもない。悪をなすことに快楽を覚えるわけでもなく、破滅思考でもない。人を愛せないわけでもなく、世界に美しさを見出せないわけでもない。悲劇には涙し、喜劇には笑顔を浮かべることができる。

 それでも、俺はどこかが壊れている。
 自分を誤魔化すことはもうできない。船内で三人へと向けた殺意は、紛れもなく自分の中から湧いて来たものなのだから。

 甲板の上で風にあたること一時間。嵐の海のように乱れた心は、いまだ凪を迎えてはいなかった。自問自答が続き、同じ場所をグルグルと回るばかりで一歩も前に進まない。

「青春の悩みは深いな。人生の先輩からの助言を聞きたくないか」

 停滞を打ち破る一言は、ダッチの男くさい笑みとともに訪れた。半日前と同じようにアメリカン・スピリットのソフトケースを差し向ける彼に、自分でも力が入っていないとわかる声で返答する。

「操船は良いのか? いつ襲撃があってもおかしくないんだろう?」
「ベニーが操舵感を握っている。俺がとんぼ返りする時間も保たせられないほど悪い腕はしてねえよ」
「ベニーも免許を持っているのか? このサイズの船の操船資格を取得するのはなかなか大変だと思うが……」
「おまえさんは赤信号で横断歩道を渡ったことはないのか?」
「つまり、無免ということか」
「俺がミッチリと仕込んだ、問題ない。ところで、そろそろ受け取ってくれ。腱鞘炎になっちまう」

 ダッチにライターを借りてタバコに火を灯す。肺を満たすニコチンまみれの煙。頬を撫でる風に加えて、舌をタバコの苦味が刺したことで、意識のリソースが内面から外界へと比重を移す。
 
 そうだ、そうだった。今は"自分がわからない"なんて、思春期のガキのようなことで悩んでいる場合じゃない。どんな苦悩も悲哀も生きているからこそ意味があるのだ。今、俺が考えるべきことはただ一つ、生き残ること、それだけだ。

 タバコの長さが半分になる頃には、ほぼ自分を取り戻せていた。もちろん、問題を先送りにしているだけだが、それで構わなかった。海賊たちに解放された後ならば、考える時間はいくらでもある。

「助かったよ。悲観的な考えばかり浮かんできて正直どうしようかと思っていた」
「残念だな。俺の人生論の授業は必要ないか」
「オックスフォードで講義するときは是非読んでくれ。最前列で受講するよ」
「舌の動きも戻ったな。結構なことだ。もう一本どうだ」
「もらうよ」

 短くなったタバコを海へと捨てて、新しい一本を受け取る。

「美味いな。癖になりそうだ」
「だろ? しかも燃費も良いときている。俺はもうこれがないと生きていけねえ」

 ライフジャケットを捲るダッチ。ジャケットの内ポケットから数箱のアメリカン・スピリットが顔をのぞかせている。

「一日に何箱吸っているんだ? 肺をやられるぞ」
「そこがこいつの弱点だな。化学物質が入ってねえ」
「?」
「アメリカン・スピリットはな、化学物質無添加で"体に良い"ってんで吸う奴がいるのさ。ナンセンスな話しさ。タバコはな、体に悪いからこそ吸うべき価値があるってもんだ」

 ベニーの言葉を思い出す。"タフで知的で変人"、なるほどダッチを表する言葉としてこれ以上のものはない。

 無言のまま数分が過ぎる。空が茜色に染まり始める。夜明けまであと少しだ。そろそろ船内に戻ろう。
 立ち上がろうとすると、ダッチが手で制した。

「ダッチ?」
「……正直な話、戸惑っている」

 訝しがる俺に構わずダッチは続ける。

「会社に袖にされたくらいでそこまでまいっているお前さんにな」

 少し驚いた。彼がその話を蒸し返すとは思わなかったからだ。しかし、袖にされたくらいでとは言ってくれる。

「事実上の死刑宣告を受けたんだ。あの場で胃の中身をぶちまけなかっただけでも褒めて欲しいくらいだが?」
「ライフル弾が頬をかすめても顔色ひとつ変えなかったタフガイにしては、ずいぶんと繊細だな」

 痛いところをついてくる。さすがに冷静に過ぎたか。

「あれはやせ我慢をしていただけだ。それに、あまりに日常とはかけ離れた状況で現実感が乏しかったんだ。部長にバッサリとやられて急に実感が湧いてきたよ」
「……そういう見方も出来なくはないか」

 含みのある言い方。珍しく歯切れが悪い。

「ダッチ、何が言いたいんだ。はっきりと言ってくれ」

 嫌な流れを感じる。気づかれてはまずいことを知られてしまったような苦い感覚。そして、その予感は外れていなかった。

「そうだな、言葉を濁してもしょうがねえか。つまりだな……」

 座っている俺を見下ろすダッチ。いつの間にか太陽の一部が水平線から覗いていた。ダッチの表情は逆光に隠されて見えない。

「お前さん、堅気じゃないだろ」



 一時間後、太陽が完全に姿を表す頃には、心配された襲撃も無く船はバラワンに到着した。
 東南アジア地域資源調達部としての知識によれば、バラワンはフィリピンの南西部にある縦に長い形をした群島だ。熱帯雨林や密林に覆われた高い山岳地帯が島の大半を占める秘境であり、欧米人の観光地として人気がある。観光業のほかには漁業や農業で生計を立てている人間が多い。

 海賊たちが船を停泊したのは、観光客が降り立つ港ではなく、地元の人間が漁に行くためのものだ。ダッチはE.O社の情報収集能力を甘く見積もってはいなかったので、馬鹿正直に正規の港は使わなかった。

 額の汗を拭う。まだ朝方にもかかわらずひどい暑さだ。開放場所が市街地に入ってからになって助かった。若干一名、そのことに不満を持っている人物がいたが、この暑さの中を徒歩で移動することを考えれば、車中でレヴィから向けられるであろう敵意も涼しいものだ。

 移動に使う車はあらかじめ現地の仲介屋に用意させてあった。手回しの良さに感心したが、ダッチによれば"運び屋"という仕事上、移動手段の確保は死活問題らしく、バラワン島に限らずそこら中の町や島に電話一本で車を用意できる準備をしてあるとのことだ。さすがにソツがない。マフィアが重宝するわけだ。
 ベニーが仲介屋から受け取った白のカローラを横付けにするとレヴィが眉をひそめた。

「トヨタかよ。四輪くらいは用意出来なかったのか?」
「無茶言わないでくれよ。数時間で此処まで持ってこさせるだけでも大変だったんだ。それに、窓には防弾シートが貼ってあるし、タイヤも換装済みだよ。多少無茶に扱っても大丈夫さ」
「車ばっかりは日本製が最高だ。どんだけ酷使してもピンピンしている」
「たしかに、ずいぶんと年季が入っていそうだ」

 おそらく、日本の中古市場で値がつかなくなったものを輸入したのだろう。
 助手席にダッチ、後部差席の右に俺、左にレヴィが座り、カローラは市街地に向けて出発した。

「姐御との合流地点までは、どのくらいかかるんだ?」
「一時間って所だな。何事もなければだがな」
「わざわざ、こんな辺鄙なところを選んだのにか?」
「E.O社は業界でも大手だ。いくらホテル・モスクワでも完全に漏洩を防げるかは分からねえ。まあ、一分一秒でも早くバラライカたちと合流しちまうことだ。戦争屋には戦争屋だ」

 最初から海路でホテル・モスクワと合流してしまえば良いと思うのだが、そうもいかない事情があるらしい。詳しくは説明してもらえなかったが、他の組織との縄張りの問題があるらしい。まあ、正規の港は避けているし、受け渡しの場所がバラワン島であることもE.O社は知らないはずなので、これで襲撃があればよほど運が悪かったと諦めるしかない。

「ロックはどの辺りで降ろすんだい?」
「プエルト・プリンセサの市街地に入ってすぐだ。悪いな、ロック」
「充分だ。炎天下でマラソンをさせられることを覚悟していたからな」

 あの街からは海路でも空路でもマニラに向かう便がある。移動には困らない。

「無職になったんだろ。どうせだったら観光でもしていったらどうだ。日本人らしく売春宿にでも泊まれば良い」

 下品なハンドサインをするレヴィ。

「……気が向いたらね」

 我慢、我慢。多少の挑発は織り込み済みだ。

「玉無し」

 ベニー、もう少しスピードを出さないか?



 順調に走行を続けるカローラの車内を見渡す。あと一時間もすれば海賊たちともお別れだ。あらためて考えてみると俺はずいぶんと運が良い。身代金と引換にならないと判明した時点で海に捨てられてもおかしくはなかったのだ。
 彼らが悪党ではあっても、外道ではなかったことに感謝する。レヴィはちょっと怪しいが。

 そのレヴィは開け放った窓から片腕を出して流れる景色を眺めている。足を組んで、上半身はだらしなく窓に持たれさせているにもかかわらず、その姿には美しさがあった。

 東洋人離れした長い手足。鍛え上げられているにもかかわらず、女性らしい丸みも損なわれていない均整のとれた肢体。鼻筋の通った顔立ちはモデルでもやっていけそうなほどに整っている。

 わざわざ運び屋などという物騒な仕事をしないでも、生きていく道は幾らでもあるだろう。彼女への侮辱となるとわかっていても、そんなことを考えてしまう。

 レヴィの目が窓の外に向かっているのを良いことに遠慮なく見ていると、急に彼女が振り返った。視線が合う。さり気なく目を逸したが遅かった。

「何見てんだよ、ああん!?」

 おまえは日本のヤンキーか。口には出さずに嘆息する。何というか、台無しだ。ちょっと見惚れていた自分が悲しくなる。

「止めとけ、レヴィ。さっきからロックに突っかかり過ぎだぞ」
「人のことジロジロ見やがるこいつがわりいんだ! 背中が痒くてしょうがねえ」
「確かにじっと見ていたね。どうしたんだい、ロック」

 良くない流れだ。注視していたのは紛れも無い事実なのだから。まずい、なにも言い訳が思いつかない。バツが悪いがしょうがない。

「いや、キレイだなと思って」

 音が消えた。
 車内をなんとも言えない沈黙が縦断する。

 唖然とした顔をするレヴィの表情が微笑ましい。彼女のこんな表情を見られたのだから恥をかいた甲斐があった。
 ダッチが爆笑する。

「くっくっく、はっはっ! そうか、そうか! それじゃあしょうがない。美人に生まれたお前がっ、悪い、レヴィ、っくく。キレイっつうには、ちょっとばかり下品だが、っく」
「……ひっく、そうだね、っふっふ。それじゃあ、くく、……しょうがない。確かに美人だ、下品だけど、っぷぷ」
「て、てめえら、全員ならべ! 脳天に穴あけて、足りない脳みそに鉛玉を足してやる!」

 ベニーはハンドルにすがりついて笑いをこらえている。レヴィは怒りでか羞恥でか、頬を赤くして吠える。レヴィにワイシャツの襟元を締め上げられながら俺は笑った。久しくなかったほど素直に、心から。

 その後の車内は、へんな遠慮がなくなったのかだいぶ空気が良くなった。市街地までの距離が伸びて欲しいと思うほどに。

 そんな考えに罰が当たったのかもしれない。

「ベニー! 左だ!」

 不意にレヴィが叫ぶ。その声と重なるように車体が甲高い音を立てて揺れる。すぐに銃撃されたのを理解する。
 この時、俺達の乗ったカローラは街と街を結ぶ幹線道路をひた走っていた。右手には海、左手には鬱蒼とした森が続き、ところどころに森へと向かう道が分かれている。その道の一つから、三台の軍用ジープが猛然とこちらに向かって来ていた。

 右手から一台、左手から二台が、路面にタイヤを擦りつけながら一気に距離を詰めてくる。迷彩服を着た男達が、ジープの窓から身を乗り出してAKMを構えているのが見える。

 ベニーが咄嗟にアクセルを離しハンドルを左に切る。銃撃の半分は外れたが、残りの半分は躱せなかった。鈍い音を響かせて今度は後部座席の窓ガラスに銃弾が当たり、ガラスが放射状に変色する。

 窓ガラスに貼られた防弾シートが力を発揮してくれた。しかし、車体そのものはただのセダンでしかない。ライフル弾相手では心もとない事この上ない。一気に緊迫する車内。先ほどまでの弛緩した空気は一変した。

「逃げきったと思ったのにっ! どこから情報が漏れたんだ!」
「っんなこと言ってる場合か。アクセルをベタ踏みしろ!」

 悲鳴をあげるベニーをダッチが叱咤する。

「やばいぜ、ダッチ。軍用ジープだ。こっちの豆鉄砲じゃろくにダメージも与えられねえ」
「しかも、三台もだ。報酬も三倍くらい吹っかけてやればよかったぜ」

 レヴィは両手にソードカトラス、ダッチは右手にS&W M629を構える。ベニーはアクセルを限界まで開ける。

 絶望的な逃走劇が始まった
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