辛くも傭兵隊の襲撃を脱した俺たちは、すぐにロアナプラから出港した。
タイ海軍の警戒水域を抜けたところで、海賊は彼らの雇い主である"バラライカ"へと連絡を取った。酒場での出来事はダッチにとっても予想外のアクシデントだったようだ。その辺りの事実関係を問い合わせている。
その結果判明した事態は造像以上に酷かった。
俺が所属している旭日重工は東京都新宿区に本社を構える大企業であり、従業員は連結子会社を含めれば5万人を越える。日本国内で、旭日重工を一流企業と呼んでも否定する人間は誰もいないだろう。
ところが、バラライカの話によれば旭日重工は倒産寸前だという。バブル時のムチャな投資によって負った莫大な負債を会計操作で誤魔化し続けていたのだ。会社の業績が好調だった期間は、毎年度の利益からの持ち出しで自転車操業を続けられていたが、ここ数年の業績悪化によってついに限界が来た。
会社の運命は風前の灯。
社員5万人の生活という大義名分は道理を押しのけ、上層部を禁断の果実へと導いた。 禁輸国の某国に、核兵器の開発を申し込んだのだ。
「で、そいつらは間抜けにも、あんたたちに密貿易を嗅ぎ付けられたってわけか」
ダッチとバラライカの会話は続く。
『そういうことよ。平社員を使って計画書の入ったディスクを取引相手に届けようとしていたのよ』
バラライカのハスキーな声で発せられる"平社員"という言葉を受けて、レヴィとベニーの視線が俺へと集まる。勘弁してくれ。核兵器開発の片棒を担がされているなんて想像できるわけがないだろう?
『別にこっちも無理な要求をしているわけじゃないのよ。非合法の密貿易の話にブーゲンベリア貿易も一枚かませて欲しいって頼んだだけよ。拒否するなら、ディスクの内容を公開して、密貿易のことを世界のみんなに知ってもらうって言ったの。可愛いものだと思わない?』
「違いねえ」
ダッチのその返事には、わずかなお愛想も含まれていないだろう。レヴィも「姐御も丸くなったもんだ」と肩を竦めている。
バラライカがブーゲンベリア貿易の社長であることは、今までの二人の会話から推測が付いている。
俺は過去の経験と現在の仕事柄、裏社会については多少の知識がある。その知識によれば、ブーゲンベリア貿易はマフィアのフロント企業のはずだ。
つまり、彼女はロシアンマフィア"ホテル・モスクワ"の幹部クラスということになる。
ホテル・モスクワはロシア最大のマフィアだ。
ロシアにおけるマフィアの影響力は日本の比ではない。マフィアが国政に影響を与えるというレベルではなく、国がマフィアそのものと言ってしまっても間違いがないほどだ。ホテル・モスクワにとっては、核兵器開発の密貿易に一枚咬むことも平常業務の範囲内だろう。
『もっと単純な方法もあるのだけれどもね。好きな様に振る舞うわけには行かないのよ。地位が上がるにつれて身動きは取りづらくなる。たまには、上の命令を遵守する必要も出てくるわ』
バラライカの殊勝な言葉に、海賊たちは例外なく鼻白んだような顔をしている。どうやら彼女はかなり好戦的な人物のようだ。
「それで、イエロー・フラッグを穴だらけにした奴らは、その間抜けな日本人たちが雇い主と考えていいのか」
『ええ。前の電話で、旭日重工の対応がちょっと引っかかったから探りを入れているところだって言ったでしょう? あの後、中国鼠が食いついてきたんで、今、お話を聞いている最中なの』
「誰が動いている」
『ちょっと待ってね』
遠くなるバラライカの声。通信機から男の悲鳴と愛玩の叫びが漏れ聞こえ出す。
『……っち、陳だ、龍庵の陳兄貴だ。兄貴はあんた方を潰すつもりで情報を。日本人はそれを元にエクストラ・オーダーを雇ってタイに向かわせたんだよォ。お、おい、しゃ喋ったろ。勘弁して頼むっおっあ、ギャアアああおあォァァァァォァッ……』
『……聞こえた?』
男の悲鳴混じりの証言、そしてバラライカの確認。
「ああ、やべえな。E.O社か。手練の戦争屋が唸るほど集まっているところだ。ディスクの受け渡し場所を再変更するか?」
『悩むところね。ずいぶんと鼻が利く連中だわ。……今から場所を変えると逆に目立つわ。予定通りバラワンでいく。どれくらいで来れそう?』
海図を広げながら、ダッチは眉間にシワを寄せる。
「そうだな、海路で3時間、いや、馬鹿正直に正規の港を使うわけにも行かねえから、適等な場所から上陸してそこから陸路か。……5時間ってところだな」
『上等よ。報酬には色をつけるわ。何としてもディスクを無事に運んで』
「了解だ。ボーナスには期待しているぜ」
その会話を最後に通信は切れた。ダッチはそのまま会話相手を俺達に変えて言葉を続ける。
「というわけだ。ランデブーポイントはバラワンに変更。ベニー、バラワン周辺で着岸できそうな場所をリストアップしてくれ」
「わかった。5キロ圏内くらいで良いかな?」
「充分だ。レヴィ、いつお客さんが来るとも分からねえ。歓待の準備は怠るなよ」
「あいよ」
「それから、ロック。お前さんの身代金交渉だが……」
ダッチが言い淀む。口を濁した彼をよそに、レヴィがあっさりと残酷な事実を告げてくる。
「そりゃ無理だろ、ダッチ。傭兵連中がイエロー・フラッグで景気よく弾をばらまいていたのを忘れたのか? こいつの心配なんかしてるわけがねえ。下っ端は切り捨てて、あたし達もろとも海の底にってやつだろ」
レヴィの率直な意見に、ベニーが眉をひそめる。
「レヴィ、いくらなんでも無神経だよ。やってみなくちゃ分からない。アサルト・ダイアラの吸出し番号ならすぐに準備できる。着岸ポイントの探索に影響が出るほどじゃないし、一応交渉してみよう。良いよね、ダッチ?」
「ああ、ものは試しだ」
見かねたのかベニーがそう提案し、ダッチも止めなかった。俺は何も言わなかった。結果は見えているが、ベニーの好意は嬉しかった。
今回の仕事は元からきな臭かったのだ。
郵送すれば簡単なのに、わざわざディスク一枚を社員に運ばせる。それも、たいしたビジネス拠点もなく左遷先として有名なボルネオ支所にだ。
平和ボケをしていたのだろうか?
いや、平和ボケを"したかった"のだろう。
何も考えずとも、何も行動を起こさなくとも、平和な日常が続いていくと思いたかった。日常など、ちり紙よりも簡単にくしゃくしゃになり引き裂かれる、そう知っていたはずなのに。
数分と立たずにベニーがハッキングで安全な回線を確保した。電話はすぐに繋がった。ダッチが一言二言話し、すぐにインカムを渡される。
諦めと僅かな希望を抱いて口を開く。
「岡島です、部長」
『無事だったか、岡島くん』
冷たく感じるほどの落ち着いた声。同僚たちが"氷の影山"と揶揄するその声は、俺にとっては平和な日常の象徴だった。
「状況は推算して戴いている通りだと思います。ディスク紛失の件は言い訳もできません。この上迷惑を掛けるのは心苦しいのですが……」
『岡島くん、ディスクとはなんのことだね』
部長の声の温度がさらに低下した。
『そんなものはどこにもない。そして君も、もう死んでいるんだ』
予想していた答だった。それでも動揺を抑えられない。
「トカゲの尻尾切りですか」
『こちらとしても苦渋の決断だ。重工の存続には変えられん』
「苦渋の決断? 自分が傷付かないなら嬉し涙も出るでしょう」
『なんと言われようと結論は変わらん。……君には期待していた。しかし、どうにもならないことはあるのだ』
そして、決定的な一声。
『岡島くん。旭日重工、五万名の社員のためだ。南シナ海に散ってくれ』
それが、取り戻した平和な世界から、再び蹴落とされたことを知った瞬間だった。
通信は一方的に切られた。
インカムをダッチに返しながら諦観の笑顔を浮かべようとする。しかし、顔の筋肉は動かず笑顔は作れなかった。
そんな自分に戸惑う。
別にたいした話ではない。たかが一企業に切り捨てられただけのことだ。誘拐されている現状も、いくらでも切り抜け用はある。日常から転落したのならば、また登れば良い。今更、血まみれになったくらいで騒ぐほど純情でもない。
この場を脱したら、しばらく休養を取ることにしよう。このところ残業続きだったから疲れが溜まっている。そして、心身ともにリフレッシュしたら、また新しい就職先を探せば良い。
大きく一回深呼吸をする。自分の心を整理したことで気分はだいぶ落ち着いた。まだ表情は戻らないが問題はない。さっそく、行動を起こそう。
俺が落ち着くのを待ってくれている海賊たちに笑う。
表情を変えずに笑う。
無表情で笑う。
笑う。
「交渉決裂か」
「聞いてのとおりだ。どうする? 俺はもう札束の引換券じゃない。破って海に捨てるか?」
三人を殺そう。
レヴィの反射神経は厄介だ。銃を抜かせる前に真っ先に首をへし折る。
ダッチは筋肉が厚い。素手では面倒だ。酒場で拾っておいたアイスピックで心臓か喉あたりを刺そう。
ベニーは最後で良い。適当な陸地まで船を運ばせてからレヴィの銃で撃ち殺す。
「さすがに、それは寝覚めが悪い。上陸したところでおいていく。山賊なんかがウロチョロしているが、まあ、死ぬよっかマシだろ。オーケー?」
いいや、良くない。
「あーあ、ボーナスはチャラかあ」
そんな面倒なことをしなくても、ここであんたたちを殺せばいい。
「なるべく安全な場所を探すよ。悪いねロック」
……殺す?
なんだ?
今、俺は何を考えた?
「ん? おい、大丈夫か。顔が真っ青だぜ」
面倒だから、ただそれだけの理由で殺そうとした?
「しょうがねえなあ。吐かれると厄介だ。風に当ててやれ」
それは、あまりにおぞましく、同時に"腑に落ちる"考えだった。
「世話が焼けるぜ、ったくよ」
レヴィが俺の肩に手を回し、甲板まで連れていこうとする。
抵抗はしなかった。
俺は只々、自分の思考の異質さに戸惑っていた。