02 圧縮

 ガラスが割れ、椅子が砕ける。
 罵りは怒号へと変わり、人を殴打する音が加わる。
 周囲は下卑た笑い声で囃し立て、下着姿の女達がポール片手に髪をかき上げれば、嬌声があがる。
 陸へと上がった俺たちは、ハリウッド映画でしかお目にかかれないような、地の果てと表現したくなる酒場に来ていた。

「地の果てか。うまい例えだ」

 ダッチによれば、南ベトナムの敗残兵が始めたこの店は、逃亡兵を匿ったのを皮切りに、娼婦、ヤク中、傭兵、殺し屋、ありとあらゆる無法者が集まり、いつしか悪の吹き溜まりとなっていたらしい。

「こういう店は嫌いかね、ロック?」
「ちょっと騒がしすぎるかな。一時間も居れば頭がおかしくなりそうだ」
「そういう顔だ。だがな、一端ここの空気に慣れちまうと、そこらのバーじゃ辛気臭くて逆に落着かなくなる。何事も慣れってことさ。――さて」

 ダッチがカウンターから立ち上がった。

「ちょっと電話を入れてくる。ロック、愚痴を溢したって何にもなりゃしねえんだ。どうせだったら楽しめよ?」
「ダッチ、その呼び方は何なんだ?」
「"ロクロウ"だから、ロック。クールだろ?」

 笑いながら店の奥に消えていく黒いスキンヘッド。
 英語圏の人間にアジア人の名前は呼びづらい。"ロクロウ"なんて舌を噛みそうな名前は尚更だろう。とはいえ、

「ロックねえ……」
「気にしなさんな。あだ名をつけるのが好きなんだよ」
 
 ベニーがダッチの後を継ぐように口を開く。

「変わってるんだよ、彼は。数年つき合ってもわかったことは、タフで知的で変人だってことくらいだ。会ったばかりの君に理解しようとしたって無理な話さ」
「なるほど。ところで、あなただけすこし感じが違うな。無粋かもしれないが、以前はなにを?」

 友好的なベニーの態度に、少しだけ踏み込んでみる。

「フロリダの大学さ。火遊びが元でマフィアとFBIを怒らせちゃってねえ。それで……」
「それで、トランクに詰められて重石代わりにされるところをあたしが助けたってわけさ」

 耳に心地よいハイトーンがベニーの言葉尻を横取りした。ベレッタをいじりながらレヴィは続ける。

「クソ話さ、よしなよベニー。昔話をするほど、歳はくってねぇ、そうだろ?」

 グラスにラム酒を注ぎながら彼女は歌う。

「"あなたに一杯、私に一杯"だ。せっかく飲みに来てるんだ。もうちょいクールな話をしようぜ。なあ、日本人?」

 彼女は慣れた仕草で、注ぎ終わったグラスをカウンター上に滑らさせる。

「……これは?」
 
 目の前で止まったグラスの中のラム酒に、困惑に揺れる自分の顔が映った。

「ビールなんぞ、小便と一緒さ、いくらやっても酔えやしねえよ。男なら、こいつだろ?」
 
 彼女が試すように俺の顔を覗き込む。断りの言葉を出そうと口を開く前に、カウンターの中からバーテンが声を上げた。

「おい、レヴィ、おまえはいい加減にしておけよ。この前みたいに、酔って喧嘩した挙句、見境無く店をぶち壊されたらかなわねえ」

 突然の横槍に、レヴィは鬱陶しそうに悪態を吐く。

「あれはエダのクソアマが挑発してきたのが始まりだ。文句は、あのアバズレに言えよ」
「どっちもどっちだ。どうせ、くだらねえ理由なんだろ。いちいち人の店で銃をぶっ放されちゃかなわねえんだよ。エダの所の暴力教会には物資の調達で世話になってるが、ラグーン商会が持ってくるのは面倒ごとだけだ」
「客に向かって、その言い草はねえだろ、バオ!」
「お前が店で壊したもののほうが、高くついてんだよ!」
「っんだと!」

 レヴィが銃を手に立ち上がる。バオもカウンターの下に手を伸ばす。そんな一触即発の二人を見て、ベニーが慌てて止めに入る。

「おいおいっ、物騒な真似は止めてくれよ、レヴィ。仕事中だよ。君が喧嘩早いのはいつものことだけど、今日はちょっと導火線が短すぎだよ」

 レヴィはその視線だけで人を殺せそうな目でベニーを見たが、ギリギリで理性が勝利したらしく、銃を下ろしてやや乱暴に椅子へと戻る。

「分かったよ、分かった! おい、バオ。仕事が終わったら話しをつけるからな」

 バオのほうはもっと切り替えが早かった。何事もなかったかのようグラス磨きを再開し、これまた何事もなかったかのように再度レヴィに声をかける。

「そういえば、レヴィ」
「……なんだよ」

 レヴィの声は低い。

「そう構えるな。今度はいい話だよ。暴力教会のリズィから伝言だ。"例のもの"が届いたから、近日中に取りに来いだとよ」
「本当か!」

 先ほどとはうってかわって彼女の声が弾む。"例のもの"が何かはわからないが、彼女の性格から考えて大層物騒なシロモロなのだろう。間違っても化粧品やブランドバッグとは思えない。

「仕事中に電話掛けたら迷惑だろうから、だとよ。ここなら三日と空けずにお前は来るからな。すぐに伝わると思ったそうだ。まったく面倒見のいい奴だ。リズィといい、張といい、おまえのボスのダッチといい、この町でましな奴はみんなカラードだ。KKKの奴らに見せてやりたいぜ」
「それはうれしいね。あたしも色つきだぜ」
「……前言撤回だ」
「おい!」

 じゃれあいを始めた二人を横にして、俺はひとつの名前に意識を取られていた。

 "リズィ"

 バオが口にしたその名前に心が揺れる。
 何の変哲もない名前。たまたま、知っている人間と同じ名前を聞いただけで動揺してしまう自分が情けない。自己分析をするならば、今の状況が良くないのだろう。アルコールと血と硝煙が混じったこの空気は嫌でも当時を思い起こさせる。
 そんな風に自分の中に入り込んで気を抜いていたのが良くなかった。
 
「どうした、色男?」
「あ、いや、知り合いと同じ名前だったから……ちょっとな」

 レヴィの質問に、うかつにも素直に返事をしてしまった。

「ふーん?」
 
 まずい。
 慇懃無礼な態度(自覚はある)が気に入らないのか、彼女は悪い意味で俺を気にしている節がある。。"知り合いの女"という餌に食いつかないわけがない。案の定、

「なんだよ、昔の女か? おまえの貧相なモノじゃ満足させられなくて逃げられたとかな」

 誰が見ても下世話と言える表情でこちらを刳ってくる。

「まあ、そんなところかな。世話になりっぱなしで、ろくに恩も返せなかった」
「嫌なことは酒を飲んで忘れようぜ。ラムには手を付けねえのか? 飲み比べといこうじゃねえか」
「いや、あまり酒は好きじゃないんだ。それに今の状況で酔うってのは……」
「まぁ、女の勝負を受けられねえ玉なしってなら、無理にとは言わないけど。ズボンやめてスカートはかなきゃね。リボンもつけてダンスパーティに行って――」

 あからさまな挑発を続けるレヴィ。
 腹は立つがそれに乗る訳にはいかない。アルコールで判断力を鈍らせたくはない。彼女からの風当たりが強くなるのは覚悟して、ダッチが帰ってくるまでノラリクライとかわそう、そう思っていた。レヴィの口から次の言葉がでるまでは。

「そのリズィって女も気の毒だな。こんな玉なしの面倒を見ていたなんてな。ああ、その女もおまえとお似合いの節操なしってわけか」

 グラリと理性が傾く音がした。
 くだらない挑発だ。児戯にも等しい。教科書通りの罵倒じゃないか。そう自分に言い聞かせる。しかし、言い聞かせている時点で腹は割れていた。レヴィのしてやったりという表情を見て、自分がどんな顔をしているかを理解する。

「おい、バオ! バカルディあるだけ持って来い!」

 止めようとは思わなかった。

 ここの空気はやはり良くない。
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