01 点火

 右耳の横を銃弾が掠めながら通り過ぎていった。
 硝煙の匂いが南国の熱い空気に混ざり、体に纏わりつく。空には雲ひとつ無く、照りつける日差しは暴力的だった。美しい珊瑚礁の海も、見ることができなければ、ただ波を起こすだけの不愉快な存在でしかない。
 ご丁寧に波の揺れをそのまま伝えてくる魚雷艇の甲板上で、船の縁に背中を押し付けて倒れた体を起こした。
 目の前には銃弾を撃ちこんできた女と、なおも銃の引き金を引こうとするその女を羽交い絞めにしている黒人の大男がいた。

「おい、ダッチ! 離せ、離せよ!」

 鍛え上げられた男の腕の中で女がもがく。ダッチと呼ばれた大男はうんざりした表情で怒鳴り返した。

「馬鹿野郎、船を壊すんじゃねえ! レヴィ!」
「わかってねえよ、ダッチ。わかってねえ。バラライカの姉御はこっちの足元を見てやがるんだ。こんな綱渡りの仕事をさせといて、たったの二万ドルしか出さないって言ってるんだぜ。平和ボケのジャパニーズの身代金で、ボーナス稼いで何が悪いってんだよ!」
「だったら、銃口向けるだけで脅しとしちゃあ十分だろ。てめえのイラツキを弾に乗せんじゃねえ!」

 そんな理由で撃たれてはたまったものじゃない。背中を冷たい汗が流れる。

「それに、いったい誰が、どうやってこいつの身代金の交渉をするんだ。俺達にはそんな余裕はどこにも無いぞ。いい加減頭を冷やせ! 俺もこの船も、カマ掘られる趣味は無いんだ。これ以上やるなら修理代はお前持ちだぞ」
「──った、わかったよ!」

 女は銃口を下げた。忌々しげにこちらを睨み付けながら銃をホルダーに仕舞う。
 大男は肩を竦め、キレイに剃り挙げた頭に手の平を当てて溜息を吐いた。

「で、結局こいつをどうするつもりなんだ?」
「海にでも叩きこめばいいだろ、そうすれば面倒も無いさ」
「馬鹿野郎、それじゃあ一緒じゃねえか。ただでさえややこしい事になってんだ。へたなまねして、バラライカの取引にケチでも付けてみろ。俺も、お前もあの世行きだ。暑いからといって心臓や脳天に風穴を空けたくは無いだろう」
「んじゃ、どうすりゃいいんだよ」
「そもそもお前がこいつを攫ってこなけりゃ、こんな面倒なことにはならなかったんだ。こいつが乗っていた船に戻せりゃ一番いいんだが……」
「"めらねしあ丸"だね。でもそれは止めたほうがいい」

 新しい声が大男の提案を否定する。くすんだ金髪を無造作にポニーテールにした白人の男だった。船倉に続く床下の扉から顔を覗かせて、ずり落ちたメガネを人差し指で押し上げながら続ける。

「フィリピン海軍の哨戒艇が巡回をする時間だ。見つかるとコトだよ。それに、もう5キロは離れている。これから戻ったところで行き違いになるのが関の山さ。とりあえず、今日のところは港まで連れて行くしかないんじゃないかな」

 「それしかねえか」と大男が先ほどよりも深く溜息を吐く。女は、フンッとつまらなそうに鼻を鳴らすと「寝る」とだけ言い、入り口の金髪男を押しのけて船倉に降っていった。
 
 金髪の男は船の後部に姿を消し、大男がこちらに足を向ける。俺が腰を抜かしていると思ったらしい。銃弾が掠めた右耳は、僅かではあるが出血をしていた。

「しょうがねえな。おい日本人、大丈夫か? 鼓膜でも破れたか?」
「あんたに……」

 意識して声を掠れさせて答える。

「あん?」
「あんたに殴られた鼻のほうが痛い」

 鼻血のほうが、耳の出血よりも多いのだ。

「……くっくっく。わりい、わりい。なかなか肝が据わっているじゃねえか。ホワイト・カラーにしちゃあ上出来だ」

 大男は笑いながら上着のポケットからハンカチを取り出す。

「話は聞いていたと思うが、とりあえずお前さんもいっしょに港まで行ってもらうことになった。すぐに開放できるかはわからねえが、まあ、悪いようにはしねえよ」
「すでに十分酷い目にあっているよ。……でも、まあ、しょうがない、こっちに選択権はないんだろう?」
「ご名答。まあ、気張っていたってしょうがねえ。とりあえず一服しろよ。アメリカン・スピリットしかねえが、やるか?」
「ニコチンが入っていれば、何でもいいさ」

 渡されたハンカチで鼻血を拭いながら言うと、「本当に肝が据わっている」と彼はまた笑った。



 甲板を背にしながら、黒人の大男と二人で煙を立ち昇らせる。
 鼻血はすでに止まっていた。礼を言ってハンカチを返すと、「どうせ安もんだ」と血で濡れたハンカチは海へと投げ捨てられた。地球環境に配慮する気持ちは微塵も無いらしい。ニコチンでいくらか気分が落ち着いたので、自分の運命を握っている三名について思いを巡らす。

 まずは、先ほどのレヴィと呼ばれていた女ガンマンだ。
 肩の高さで切りそろえられた真っ直ぐな黒髪に、切れ長の目。粗野な口調とは裏腹に、どこか凛とした美しさを持った女だった。顔立ちは完全に東洋系だが、ネイティブなアメリカ英語を話していたことを考えると、日系もしくは中国系のアメリカ人だろうか。服装はタンクトップに股下までのカットジーンズ。あらわになった右肩に、黒一色の色気の無い刺青をしていた。

 遠慮なく弾を撃ちこんでくれた銃はベレッタM92だ。彼女が独自にカスタマイズしたのか、スライドとバレルが通常よりも長くなっていた。M92自体は、軍や警察でも使われている扱い易い銃ではあるが、女の身であれほど軽々と振り回しているのを見た記憶はほとんど無い。右耳を掠めた銃弾もおそらくは狙ってやったことだ。片手で無造作に撃ったにもかかわらず銃口に揺れが無かった。衝撃をキレイに受け流していなければできない芸当だ。

 一方、金髪ポニーテールの男ベニーは荒事は向きそうに無い。
 細身ながら全身がバネのようだったレヴィと違い、体格も単純に細いだけだった。どこにでもある無難なデザインのメガネにアロハシャツ、無精ヒゲ。比較的整った顔立ちをしていたが、暴力を生業とするものの、良く言えば精悍さ、悪く言えば獰猛さは覗えない。暴力集団の中の優男。セオリーで言えば後方支援やメカニック担当だろうか。

 最後の一人、自分の隣で旨そうにタバコをふかしている黒人の大男ダッチ。
 身長は二メートルに届きそうなほどに高い。鍛えられた体は、俺の倍近い厚みがありそうだ。見た目だけで考えれば完全に肉体派だが、言葉の端々からうかがえる含蓄は、彼が単なる戦闘屋ではないことを示している。
 十中八九、過去に軍属を経験している。一つ一つの動きに合理性がある。あれは軍人上がり特有のものだ。もっとも、彼自身もそのことを隠そうとはしていないようなので、それを見破ったところでどうということもないだろうが……。
 何にしろ、名目的にも実質的にも、彼が三人のリーダーであることは間違いないだろう。

「なにか、聞きたいことがあるのか?」

 視線を感じたのか、器用に煙で輪を作りながらダッチが問いかけてくる。
 聞きたいことか……、もちろんある。問題なのは何を質問するかだ。本当に聞きたいことと多少肝の座った平凡なサラリーマンが聞くであろうことを天秤にかけてしばし思考する。

 奪われたディスクについて質問する、それが無難なところだろう。

 俺の誘拐はディスク強奪のついでにすぎない。
 直属の上司である景山部長に指示されて、ボルネオ支社長に届ける最中であったあのディスクにはいったい何が記録されているのか? ダッチたちをフィリピン海軍の巡回ポイントに乗り込まさせるほど彼らのクライアントがいれこむシロモノだ。さぞかし重要なものなのだろう。

「悪いが、知らねえなあ。知りたくもねえ。俺たちゃ、ただクライアントに届けるだけだ」

 ダッチの返答はそっけない。

「俺たちゃ単なる運び屋だよ。俺たちが持っていたところでクソの役にも立ちやしねえ。使えるやつが使って初めて価値が出る。お前さんも余計な詮索はせんこった。ここの商売じゃ、覗き屋は早死にすることになってんだ」
「俺はいったいどうなるんだ」
「お宅の会社と連絡をつけて引き取ってもらうさ。もっともディスクを依頼主に渡すのが先だがな」

 ダッチは短くなったタバコを指先で弾いて海面に捨てると立ち上がった。

「さて、俺たちはこれからタイの港に入る。そこの酒場で依頼主にブツを渡し、そこからは、あんたの運試しだ」

 船倉へと続く床板を持ち上げながら不吉なことを言う。

「俺に運がなかったら?」
「同情するし、祈ってやってもいい」
「……ありがたくて、涙が出そうだ」

 溜息とともに吐き出された煙で視界が遮られる。船倉に降りていくダッチの表情は見えなかった。



「バラライカか……」

 レヴィ、ダッチ、両名の口からでた名前だ。二人の話しぶりからすると、この人物が彼らのクライアントの可能性が高い。
 ロシアの弦楽器にそんな名前があったような気がした。いや、それともカクテルだったろうか。どちらにしろ、ロシアに関係する名前だ。

 "ロシア"には、いい思い出が無い。

 言葉から記憶が喚起され、心の奥底に沈めた過去がアブクのように浮かんでくる
 首を振ってそれを散らす。無くすわけにはいかない過去だが、今思い出すのはまずかった。
 平和で平穏な世界も、床板を一枚めくってみれば、そこには血の海と硝煙の雲が広がっている。今の俺は、その床板の端を掴んでかろうじてぶら下がっている状態だ。
 ダッチの言葉通りに行けば、時機に会社の人間が引き上げてくれるはずだが楽観はできない。

 自分から登ることも、降りることもするつもりはない。
 俺はまだ岡島緑郎を止める気はなかった。
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